東京高等裁判所 平成7年(行ケ)261号 判決 1998年9月03日
オランダ国3013・エイエル・ロッテルダム、ヴェーナ455
原告
ユニリーバー・ナームローゼ・ベンノートシャーブ
代表者
アール・ブイ・テート
訴訟代理人弁護士
山崎行造
同弁理士
木村博
大阪府大阪市中央区西心斎橋二丁目1番5号
被告
不二製油株式会社
代表者代表取締役
安井吉二
訴訟代理人弁理士
鈴江武彦
同
橋本良郎
同
斎藤洋伸
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 この判決に対する上告のための付加期間を30日と定める。
事実
第1 当事者の求めた裁判
1 請求の趣旨
(1) 特許庁が平成5年審判第12951号事件について平成7年6月15日にした審決を取り消す。
(2) 訴訟費用は、被告の負担とする。
2 請求の趣旨に対する答弁
主文1、2と同旨
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、発明の名称を「トリグリセリドの酵素転位方法」(出願当初の発明の名称「脂肪及びその製法」)とする特許第1746030号の特許発明の特許権者(1976年2月11日イギリス国においてした特許出願に基づく優先権を主張して昭和52年2月10日に特許出願をし、昭和59年2月10日付、昭和61年3月12日付、昭和61年4月24日付及び昭和61年9月25日付の手続補正書による明細書の補正を経て、特公昭62-43678号として出願公告され、その後、さらに平成1年8月7日付及び平成3年2月22日付の手続補正書による明細書の補正を経て、平成5年3月25日に特許第1746030号として設定登録されたもの。以下「本件特許」といい、その発明を「本件発明」という。)である。被告は、平成5年6月22日、原告を被請求人として本件特許ついての特許の無効の審判を請求し、同年審判第12951号事件として審理された。原告は、平成7年6月15日、本件特許を無効とする旨の審決を受け、平成7年6月28日に審決謄本の送達を受けた。なお、職権で出訴期間として90日を付加された。
2 特許請求の範囲
(1) 本件特許出瀬当初の明細書(以下「当初明細書」という。)の特許請求の範囲(1)の項の記載は、次のとおりである。
「酵素を活性化する少量の水と共に、分子間エステル化触媒として、脂肪酸反応体に分散されたリパーゼ酵素の存在で分子間エステル化によりグリセリド油又は脂肪を含む脂肪反応体中の脂肪基の転位の方法。」
(2) 昭和61年3月12日付手続補正書によって補正された明細書の特許請求の範囲1の項の記載は、次のとおりである。
「トリグリセリドをリパーゼと接触させて脂肪反応体の脂肪酸基を転位する方法において、リパーゼは既知方法により不活性支持体上に固定し、反応は反応体の1重量%より多くない水を含む水不混和性有機液体相で、好ましくは遊離脂肪酸又は他のエステルを存在させて行い、そして転位トリグリセリドを回収することを特徴とする、上記方法。」
(3) 平成3年2月22日付手続補正書によって補正された明細書の特許請求の範囲1の項の記載(本件発明)は、次のとおりである。
「トリグリセリドを、水溶性の微生物由来リパーゼ酵素と接触させて脂肪反応体の脂肪酸基を転位する方法において、リパーゼは既知方法により不活性支持体上に固定し、反応は脂肪反応体の1重量%以下の少量の水を含む水不混和性有機液体相で遊離脂肪酸又は他のエステルの存在下又は不存在下で行い、そして転位トリグリセリドを回収することを特徴とする、上記方法。」
3 審決の理由
審決の理由は、別添審決書の理由の写しのとおりであって、昭和61年3月12日付の手続補正は、特許請求の範囲1の項に「他のエステル」に係る記載を導入し、当初明細書の要旨を変更するものであるから、特許法40条の規定により、本件特許出願は、その補正について手続補正書を提出した時、すなわち、昭和61年3月12日にしたものとみなされるところ、本件発明は特公昭57-27159号公報(引用例)記載の発明と同一であり、特許法29条1項3号により特許を受けることができないものであるから、本件特許は同法29条1項の規定に違反してされたものであって、同法123条1項1号に該当し無効であるとした。
4 審決取消事由
(1) 審決の理由Ⅰ(手続の経緯・特許発明の要旨)、同Ⅱ(当事者の主張等)は認める。
同Ⅲ、1、(1)、(ⅰ)のうち、昭和61年3月12日付及び平成3年2月22日付各手続補正書によって補正された明細書の特許請求の範囲1の項に記載の「他のエステル」が、脂肪酸のトリグリセリド以外のエステルを意味するものであること、一般にエステルとは有機酸又は無機酸とアルコールとから水を失って生ずるような構造をもつ化合物をいうこと、当初明細書には、「エステル」の用語について、「分子間エステル化」(特許請求の範囲(1)の項等)及び「テルペンエステル」(30頁6行ないし7行)の記載が認められ、「分子間エステル化」とは、反応自体を示す用語として用いられており、また、「テルペンエステル」とは、反応生成物に含有されるものであって、いずれも脂肪反応体の脂肪酸基を転位する方法における原料として用いるエステルの記載ではなく、これらの記載以外に当初明細書には「エステル」の用語の記載はないものの、「グリセリド油」、「脂肪」、「グリセリド」、「植物性油」、「植物油」、「オリーブ、パーム、綿実、大豆又はひまわり油」、「植物性バター」等々の記載があり、グリセリドは、脂肪酸とトリアルコールであるグリセロールとのエステルであるところ、上記油あるいは脂肪は複数種のトリグリマリドを含むこと、当初明細書には、これら油あるいは脂肪を目的とする、食用のための脂肪を製造するための原料として用い、複数種の油又は脂肪を用いる、あるいは油又は脂肪を脂肪酸とともに用いてグリセリド分子中の脂肪酸残基の置換を行うことが記載されているものの、トリグリセリド以外のエステルの存在下で原料の脂肪酸トリグリセリド分子中の脂肪酸残基の置換を行うことについての直接の記載はないことは認める。
同Ⅲ、2、(2)中、本件発明が「他のエステル」の存在下で反応を行う場合は、本件発明は、昭和57年6月9日に日本国内で頒布された特公昭57-27159号公報(甲第9号証)記載の発明と同一であることは認める。
(2) 審決は、原告が昭和61年3月12日付の手続補正書により、特許請求の範囲に「他のエステル」に係る記載を導入し、これに伴う明細書の記載の補正を行ったことが、明細書の要旨を変更するか否かについての判断を誤り、その結果として、本件特許出願の出願日が補正を行った日である昭和61年3月12日であるとの誤った認定をし、したがって、本件特許出願は、その出願日の後で上記手続補正を行った日より前に特許出願された特願昭53-144736号(特公昭57-27159号公報。甲第9号証)の後願であるとして、本件特許を無効であると認定したものであって、本件審決は取り消されるべきである。
当初明細書中に、「遊離脂肪酸は反応の途中でトリグリセリド自体から放出される他の脂肪酸と共に、転位におけるグリセリドの生成に寄与するためグリセリド混合物へ添加される」(7頁8行ないし11行)という記載があるが、同記載の「遊離脂肪酸」とは、出発物質のトリグリセリドから放出される脂肪酸ではない、転位により生成されるトリグリセリドの脂肪酸残基の供給源となる脂肪酸である。そして、遊離脂肪酸であって、トリグリセリド自体から放出されるもの以外のものは、しばしばエステルの加水分解によって生ずるものであることは化学技術の常識に属するものである。したがって、当初明細書の前記記載部分は、「他のエステル」の使用を予定することが自明であることを示している。
また、J.Gen.Appl.Microbiol.vol.10、No.1.1964年、13頁本文1行ないし3行(甲第8号証)には、「リパーゼは、脂肪酸グリセリドのみではなく、一価のアルコールの脂肪酸のいくつかのエステルも加水分解し、その酵素は、逆反応を触媒できる加水分解の典型的な例である。」と記載されており、当業者は、この事実を本件特許の特許出願日の前に知っていた。したがって、当初明細書記載の転位が遊離脂肪酸の存在下で起こるのであれば、トリグリセリド以外のエステルの存在下で起こることは明らかである。
さらに、当初明細書の第1表は、元のやし油/オリーブ油混合物のトリグリセリド画分の組成、当初明細書記載の発明の方法により分子間エステル化したトリグリセリド画分の組成と「従来のアルカリ金属触媒の存在で分子間エステル化した時の同一混合物のトリグリセリド画分の組成」とを比較したものである。そして、従来のアルカリ金属触媒の存在下で分子間エステル化した例として、特開昭51-84805号公報(甲第10号証)が存在し、そこには、所定の脂肪酸残基を含む油をアルカリ金属のエステル交換触媒の存在下にC1~C3アルカノールの不飽和脂肪酸エステルの少なくとも1種と反応させるエステル交換が記載されているから、アルカリ金属の触媒の存在下でのエステル交換では、「他のエステル」が用いられることが示されており、前記甲第8号証において、リパーゼが、一価のアルコールの脂肪酸のエステルを加水分解することが示されており、当初明細書において、遊離脂肪酸の存在下で、脂肪酸基を転位させる反応を行っていることから、昭和61年3月12日付手続補正書記載の発明のリパーゼ触媒を用いる場合においても、当初明細書に「その他のエステル」の存在も記載されていることに相当するものと考えるべきである。
したがって、上記手続補正書たよる特許請求の範囲1の項の補正により、「他のエステルの存在下」で行うことを明細書中に導入する補正は、当初明細書の要旨を変更するものではなく、特許法40条の規定に該当しないから、本件特許の特許出願日は、前記手続補正書が提出された日ではなくて、当初の出願日である昭和52年2月10日である。
そうすると、特公昭57-27159号(甲第9号証)の特許出願は、本件特許の出願日の後である昭和53年11月21日にされたものであるから、本件特許の新規性は、甲第9号証の存在により左右されるものではない。
第3 請求の原因に対する認否及び被告の反論
1 請求の原因1ないし3は認める。
同4は争う。本件審決の認定判断はすべて正当であり、本件審決には原告主張の違法はない。
2 原告の指摘する当初明細書の「遊離脂肪酸は反応の途中でトリグリセリド自体から放出される他の脂肪酸と共に、転位におけるグリセリドの生成に寄与するためグリセリド混合物へ添加される」との記載は、遊離脂肪酸を添加すること、換言すれば、遊離脂肪酸をそれ自体で添加することだけを意味するものであって、到底「他のエステル」の使用が自明であると解することはできない。
むしろ、当初明細書(甲第2号証の2の15頁9行ないし10行)に「本発明の脂肪反応体は遊離形又はグリセリドに結合した何れかでこれらの酸を含む。」と記載されていることからも分かるように、脂肪酸は遊離の形での脂肪酸又はトリグリセリドの形での脂肪酸として存在することだけが記載されていたのであって、「他のエステルの添加」は明確に排除されていたと解すべきである。
また、原告の指摘する甲第8号証には、リパーゼが一価のアルコールの脂肪酸のいくつかの(すべてではない)エステルを加水分解することが示されているだけであることは、原告も認めるとおりであって、当初明細書記載の発明の方法であるトリグリセリドの転位反応に関するものではない。
第4 証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録に記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
第1 請求の原因1ないし3の各事実(特許庁における手続の経緯、特許請求の範囲、審決の理由)は当事者間に争いがない。
第2 原告の主張する取消事由について判断する。
1 本件の争点は、昭和61年3月12日付手続補正書によって補正された明細書の特許請求の範囲1の項に加えられた「他のエステル」に係る技術が、当初明細書及び図面に記載された事項の範囲内のものであるかどうかである。
2 昭和61年3月12日付及び平成3年2月22日付各手続補正書によって補正された明細書の特許請求の範囲1の項に記載の「他のエステル」が、脂肪酸のトリグリセリド以外のエステルを意味するものであること、一般にエステルとは有機酸又は無機酸とアルコールとから水を失って生ずるような構造をもつ化合物をいうこと、当初明細書には、「エステル」の用語について、「分子間エステル化」(特許請求の範囲(1)の項等)及び「テルペンエステル」(30頁6行ないし7行)の記載が認められ、「分子間エステル化」は、反応自体を示す用語として用いられており、また、「テルペンエステル」とは、反応生成物に含有されるものであって、いずれも脂肪反応体の脂肪酸基を転位する方法における原料として用いるエステルの記載ではなく、これらの記載以外に当初明細書には「エステル」の用語の記載はないものの、「グリセリド油」、「脂肪」、「グリセリド」、「植物性油」、「植物油」、「オリーブ、パーム、綿実、大豆又はひまわり油」、「植物性バター」等々の記蔵があり、グリセリドは、脂肪酸とトリアルコールであるグリセロールとのエステルであるところ、上記油あるいは脂肪は複数種のトリグリセリドを含むこと、当初明細書には、これら油あるいは脂肪を目的とする、食用のための脂肪を製造するための原料として用い、複数種の油又は脂肪を用いる、あるいは油又は脂肪を脂肪酸とともに用いてグリセリド分子中の脂肪酸残基の置換を行うことが記載されているものの、トリグリセリド以外のエステルの存在下で原料の脂肪酸トリグリセリド分子中の脂肪酸残基の置換を行うことについての直接の記載はないことは、原告も認めるところである。
3 ところで、当初明細書の発明の詳細な説明中には、「遊離脂肪酸は反応の途中でトリグリセリド自体から放出される他の脂肪酸と共に、転位におけるグリセリドの生成に寄与するためグリセリド混合物へ添加される。」(甲第2号証の2の7頁8行ないし11行)という記載がある。
原告は、上記記載の「遊離脂肪酸」とは、出発物質のトリグリセリドから放出される脂肪酸ではない、転位により生成されるトリグリセリドの脂肪酸残基の供給源となる脂肪酸であり、そして、遊離脂肪酸であって、トリグリセリド自体から放出されるもの以外のものは、しばしばエステルの加水分解によって生ずるものであることは化学技術の常識に属するものであるから、当初明細書の前記記載部分は、本件特許発明において「他のエステル」の使用を予定することが自明であることを示している旨主張する。
原告の主張するとおり、当初明細書の発明の詳細な説明には、「遊離脂肪酸は反応の途中でトリグリセリド自体から放出される他の脂肪酸と共に、」と記載されていて、「遊離脂肪酸」と「トリグリセリド自体から放出される他の脂肪酸」とが区別して記載されているところ、この遊離脂肪酸については、当初明細書を精査するも、エステルの加水分解によって生じるものであることを窺わせる記載はない。むしろ、同じ発明の詳細な説明中には、「本発明の脂肪反応体は遊離形又はグリセリドに結合した何れかでこれらの酸を含む。」(甲第2号証の2の15頁9行ないし10行)という記載があり、ここにいう「グリセリド」がトリグリセリドであることは前記2のとおり原告も認めるところであり、脂肪酸は遊離の形での脂肪酸又はトリグリセリドの形での脂肪酸としてのみ存在するとしているのであって、トリグリセリド以外のエステル、すなわち、「他のエステル」の使用は全く考慮されていない。
さらに、当初明細書の発明の詳細な説明中の実施例について、トリグリセリド以外のエステル、すなわち、「他のエステル」を使用しているものがあるかどうかについて検討するに、実施例のうち遊離脂肪酸を使用するものは、実施例2ないし8、10ないし14であり、そのうち実施例2ないし6、12ないし14では遊離脂肪酸としてステアリン酸を使用し、実施例7はステアリン酸及びアラキドン酸(「アラキジン酸」とあるが「アラキドン酸」の誤記と認める。)を使用し、実施例8、11ではリノール酸を使用し、実施例10ではエルカ酸を使用しており、これらの脂肪酸は、いずれも遊離の脂肪酸の形態で使用されており、エステルの加水分解によって生じた実施例は全くない。他にトリグリセリド以外のエステルの加水分解によって生じた遊離脂肪酸を使用した実施例は存在しない。
以上を総合すると、当初明細書の記載内容に照らし、当初明細書には、トリグリセリド以外のエステル、すなわち、「他のエステル」の加水分解によって生じた遊離脂肪酸を使用する技術事項が含まれていると認めることはできず、また、記載されていると認めることのできる程度に自明であるともいえない。
したがって、当初明細書の発明の詳細な説明に「遊離脂肪酸」と「トリグリセリド自体から放出される他の脂肪酸」とが区別して記載されているからといって、当該「遊離脂肪酸」が「他のエステル」の加水分解によって生じたものも含むものであると解することはできず、原告の上記主張は失当である。
4 また、原告は、甲第8号証には、「リパーゼは、脂肪酸グリセリドのみではなく、一価のアノレコールの脂肪酸のいくつかのエステルも加水分解し、その酵素は、逆反応を触媒できる加水分解の典型的な例である。」と記載されており、当業者は、この事実を本件特許の特許出願日の前に知っていたから、当初明細書記載の転位が遊離脂肪酸の存在下で起こるのであれば、トリグリセリド以外のエステルの存在下で起こることは明らかである旨主張する。
甲第8号証には、原告が主張するような記載があることが認められる。しかしながら、本件のような脂肪反応体において、一般に、「遊離脂肪酸の存在」する場合として、遊離脂肪酸の添加によって存在する場合、トリグリセリドの加水分解によって存在する場合、トリグリセリド以外のエステルの加水分解によって存在する場合などがあり得るのであって、当初明細書記載の「遊離脂肪酸」がトリグリセリド以外のエステルの加水分解によって生じる遊離脂肪酸でなければならない必然性はなく、仮に同記載事項が本件特許出願時において周知であったとしても、このことから直ちに、当初明細書に「遊離脂肪酸」がトリグリセリド以外のエステルの加水分解によって生じるものも記載されていると解することはできないところ、当初明細書に、トリグリセリド以外のエステルの加水分解によって生じた遊離脂肪酸を使用する技術事項が記載されているとも、また、当初明細書上自明の事項とも認め得ないことは、前説示のとおりであるから、上記原告の主張は採用することができない。
5 さらに、原告は、当初明細書の第1表は、元のやし油/オリーブ油混合物のトリグリセリド画分の組成、当初明細書記載の発明の方法により分子間エステル化したトリグリセリド画分の組成と「従来のアルカリ金属触媒の存在で分子間エステル化した時の同一混合物のトリグリセリド画分の組成」とを比較したものであり、そして、従来のアルカリ金属触媒の存在下で分子間エステル化した例として、特開昭51-84805号公報(甲第10号証)が存在し、そこには、所定の脂肪酸残基を含む油をアルカリ金属のエステル交換触媒の存在下にC1~C3アルカノールの不飽和脂肪酸エステルの少なくとも1種と反応させるエステル交換が記載されているから、アルカリ金属の触媒の存在下でのエステル交換では、「他のエステル」が用いられることが示されており、前記甲第8号証において、リパーゼが、一価のアルコールの脂肪酸のエステルを加水分解することが示されており、当初明細書において、遊離脂肪酸の存在下で、当初明細書記載の発明の脂肪酸基を転位させる反応を行っていることから、昭和61年3月12日付手続補正書記載の発明のリパーゼ触媒を用いる場合においても、当初明細書に「その他のエステル」の存在も記載されていることに相当するものと考えるべきである旨主張する。
しかし、当初明細書の第1表には原告主張のとおりの記載があるものの、甲第10号証に言及しているわけではないから、仮に甲第10号証に原告主張のような記載があって、アルカリ金属の触媒の存在下でのエステル交換では「他のエステル」が用いられることが示されているとしても、当初明細書に「他のエステル」の存在も記載されているとすることはできず、したがって、原告の主張は、その前提を欠き、失当である。
6 なお、原告は、その主張を裏付けるものとして、甲第11号証(フランク・ディ・ガングストン教授の供述書)を証拠として提出しており、同号証には「8.書類及び議論を客観的に考えた後に、当業者は、即座にそして何の疑いも持たずに、短鎖アルキルエステルは、遊離脂肪酸及びトリグリセリドと全く同様に作用し、従って、それらの短鎖脂肪酸エステルの使用は、日本において最初に出された明細書の範囲内であると考えます。」(訳文2頁10行ないし13行)という記載があるところ、同供述書では、その根拠として、「9.その見解は、下記の考察を基にしています:(ⅰ)イワイのJ.Gen.Appl.Microbiol.10、No.1.1964年、13頁等には、酵素的加水分解及びエステル化反応の機構が開示されています。この論文における教示から、グリセロール又はトリグリセリドの酵素的変換を達成するために要求されるものは、反応混合物中の脂肪酸「部分」の存在です。その脂肪酸部分は、遊離脂肪酸からか又はトリグリセリドからか又は脂肪酸エステルから生成されることができます。従って、イワイは、短鎖アルキルエステルは、遊離脂肪酸部分にとって遊離脂肪酸又はトリグリセリドのような他の知られた供給源と同一の供給源であり、・・・(ⅲ)さらに、トリグリセリドは、エステルすなわち、グリセロールのエステルの例でもあり、これは、性質においてアルキルエステルと異ならず、従って、当業者は、トリグリセリドが適用される場合には、同様に他のエステルも適用されることを即座に理解するであろうと考えます。」(同2頁14行ないし3頁2行)などと記載されている。
しかし、当初明細書は、上記根拠とする事項について何ら言及しておらず、また、前記4の説示と同様、仮に、短鎖アルキルエステルが、遊離脂肪酸部分にとって遊離脂肪酸又はトリグリセリドのような他の知られた供給源と同一の供給源であり、当業者が、トリグリセリドが適用される場合に、同様に他のエステルも適用されることを即座に理解することができるとしても、このことから直ちに、当初明細書に「遊離脂肪酸」がトリグリセリド以外のエステルの加水分解によって生じるものも記載されていると解することはできず、また、当初明細書の記載上自明の事項とも認め得ないのであるから、前記3の判断を左右するものではない。
7 そうすると、昭和61年3月12日付の手続補正は、特許請求の範囲1の項に「他のエステル」に係る記載を導入し、当初明細書の要旨を変更するものであるから、特許法40条の規定によって、本件発明の特許出願は、その補正について手続補正書を提出した昭和61年3月12日にしたものとみなされる。ところで、本件発明が「他のエステル」の存在下で反応を行う場合は、本件発明は、昭和57年6月9日に日本国内で頒布された特公昭57-27159号公報(甲第9号証)記載の発明と同一であることは原告の認めるところであるから、特許法29条1項3号により特許を受けることができないものであり、本件特許は、同法29条1項の規定に違反してされたものである。
第3 よって、藩決には原告主長の違法はなく、その取消しを求める原告の本訴請求は、理由がないものというべきであるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための付加期間について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条、96条2項の各規定を適用して、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結日 平成10年8月20日)
(裁判長裁判官 清永利亮 裁判官 山田知司 裁判官 宍戸充)
理由
Ⅰ. 手続の経緯・特許発明の要旨
本件第1746030号特許は、昭和52年2月10日(優先権主張 1976年2月11日、英国)に出願され、昭和59年2月10日付、昭和61年3月12日付、昭和61年4月24日付及び昭和61年9月25日付手続補正書で明細書が補正され、特公昭62-93678号として出願公告された後、出願公告後の平成1年8月7日付及び平成3年2月22日付手続補正書で補正され、平成5年3月25日に設定登録されたものであって、本件特許第1746030号発明(以下、「特許発明」という。)の要旨は、願書に添付された明細書(以下、「特許明細書という。)の記載からみて、特許請求の範囲第1項に記載されたとおりの
「トリグリセリドを、水溶性の微生物由来リパーゼ酵素と接触させて脂肪反応体の脂肪酸基を転位する方法において、リパーゼは既知方法により不活性支持体上に固定し、反応は脂肪反応体の1重量%以下の少量の水を含む水不混和性有機液体相で遊離脂肪酸又は他のエステルの存在下又は不存在下で行い、そして転位トリグリセリドを回収することを特徴とする、上記方法。」
にあるものと認める。
Ⅱ. 当事者の主張等
1. 請求人の主張及び証拠方法
(1) 請求人は、「特許第1746030号の特許を無効とする。審判費用は、請求人の負担とする。」との審決を求め、本件特許については、出願公告決定の謄本の送達前である昭和61年3月12日にされた本件明細書についてされた補正が、明細書の要旨を変更するものであるから、特許法第40条の規定によって、本件特許出願は昭和61年3月12日にしたものとみなされる。そして、本件特許発明は、その出願日とみなされる補正日の前である昭和57年6月9日に頒布された甲第1号証に記載された発明であって、特許法第29条第1項第3号の規定により特許を受けることができないものであるから、本件特許は、同法第123条第1項第1号の規定により無効にすべきものである旨主張し、その理由について概略次のように述べている。
本件特許発明は、特許請求の範囲第1項に記載されたとおりのものであるが、反応を「他のエステルの存在下」で行うことは、昭和61年3月12日付手続補正書(甲第3号証)による特許請求の範囲第1項の補正により、明細書中に導入されたされたものである。
ところで、願書に最初に添付した明細書(以下、「当初明細書」という。)について「エステル」の文言は、「分子間エステル化」(1頁5~6行、5頁4~5行等)及び「テルペンエステル」(30頁6~7行)がみられるが、前者はグリセリドのエステル交換反応を表すために用いられているだけであり、後者は反応生成物に含まれるものである。
そして、それ以外には反応原料として「エステル」を使用するという表現すら見あたらないし、強いて反応原料であるエステルに対応する概念を指摘しようとしても、グリセリドの語を見いだすことができるにすぎない。
このように、本件当初明細書には本件発明方法における「他のエステル」の使用についての記載は全く存在しなかったし、「他のエステル」の使用を示唆する記載も存在しなかったことは明らかである。
従って、この「他のエステルの存在」の要件は、本件当初明細書には全く示されていなかった事項であるから、この要件を導入した昭和61年3月12日付手続補正書が要旨を変更する補正であることは明らかである。
このように、本件特許については、出願公告決定の謄本の送達前に明細書の要旨を変更する補正がなされているので、特許法第40条の規定に基づき、本件特許出願の出願日は要旨変更の補正書(甲第3号証)を提出した日である昭和61年3月12日であるとみなされることとなる。
そして、本件特許発明の構成要件は全て、本件特許の出願日とみなされる補正日の前である昭和57年6月9日に頒布された甲第1号証に示されている。
(2) なお、上記理由の説明に際し、請求人は次の事項についても言及している。
(イ) 特許明細書において、他のエステルの具体的な内容についての説明は全く存在しないので、その内容が明瞭でなく、この点から本件明細書は、特許法第36条に規定する要件を満たしていない不備がある。
(ロ) 本件特許出願について、その出願公告後の平成1年8月7日にも明細書の補正がなされており、この補正では、平成1年8月7日付手続補正書(甲第5号証)の5頁の12項として、「1から10%の量の脂肪反応体、即ち油脂及びその脂肪酸で」を、「脂肪反応体、即ち油脂及びその脂肪酸又はその脂肪酸のグリセリド以外のエステルの1から10%の量で、」と補正して、脂肪酸のグリセリド以外のエステルの使用が本件発明方法に含まれる趣旨の記載を明細書に導入している。
しかし、本件当初明細書には、エステルとして脂肪酸のグリセリドが記載されていただけであって、それ以外のものは記載されていなかったし、また本件出願公告明細書(甲第4号証)にも記載されていなかった。このように、上記出願公告後の補正は、出願公告時の明細書にも示されていなかった「脂肪酸のグリセリド以外のエステル」までも「他のエステル」として明確に追加するものであるから、出願公告時の特許請求の範囲における「他のエステル」の概念を「脂肪酸のグリセリド以外のエステル」までも包含するように更に拡大することになり、特許請求の範囲を実質的に変更又は拡大する補正であって、特許法第64条第2項で準用する同法第126条第2項の規定に違反する補正であり、同法第42条の規定によって、この補正はされなかったものとみなされる。
(ハ) 本件特許請求の範囲第1項には、「脂肪反応体の1重量%以下の少量の水を含む」ことが記載きれている。当初明細書には、「酵素を活性化する少量の水」が存在することを本件発明の構成要件としていたところ、昭和61年3月12日付手続補正書(甲第3号証)によって「反応体の1重量%より多くない水を含む」と補正し、最終的には平成3年2月22日付手続補正書(甲第6号証)により、「脂肪反応体の1重量%以下の少量の水を含む」ことを構成要件とした。この規定は一定量の水分の存在を必須要件としているものの、上限を規定しているだけであって下限について規定していないから、構成要件としての水分含有量の範囲を不明確にしている。従って、この補正は本件明細書を特許法第36条に規定する要件を満たしていない不備のある明細書としている。また、この点からでも昭和61年3月12日の手続補正書は要旨を変更する補正である。
(3) そして、上記主張を立証する証拠方法として、次の書証を提示している。
甲第1号証:特公昭57-27156号公報
甲第2号証:特開昭52-104506号公報
甲第3号証:昭和61年3月12日付手続補正書
甲第4号証:特公昭62-43678号公報
甲第5号証:平成1年8月7日付手続補正書
甲第6号証:平成3年2月22日付手続補正書
2. 被請求人の主張及び証拠方法
(1)被請求人は、「本件審判の請求は、成り立たない。審判費用は、請求人の負担とする。」との審決を求め、請求人の主張する無効理由についてはいずれも理由がないものである旨主張し、その理由として概略次のとおり述べている。
(イ)請求人は、「本件特許の出願時の明細書には、本件特許発明の方法における『他のエステル』の使用についての記載がなかったことから、本件特許出願人が、出願公告決定の謄本の送達前である昭和61年3月12日付提出の手続補正書によって、特許請求の範囲第1項に『他のエステルの存在下』で本件特許発明の方法を行うことを前記方法の構成要件として導入する補正は、要旨を変更する補正であると主張している。
しかし、エステル交換とは本来、脂肪酸残基の供給源が存在しなければならないことを意味し、この供給源は、脂肪酸のグリセリドに限らず、脂肪酸残基のどのような供給源でもよい。そして、本件当初明細書には、「本願発明の方法は従来の分子間エステル化法の結果を得るために適用することができる。」(7頁6~7行)と記載され、第1表(17頁)は、元のやし油/オリーブ油混合物のトリグリセリド画分の組成、本件特許発明の方法により分子間エステル化したトリグリセリド画分の組成と、「従来のアルカリ金属触媒の存在で分子間エステル化した時の同一混合物のトリグリセリド画分の組成」とを比較したものである。
(ロ) ところで、例えば乙第1号証及び乙第2号証には、アルカリ金属或いはアルカリ金属アルコキシド触媒の存在下に、脂肪酸のアルカノールエステルを使用して、グリセライドをエステル交換することが記載されているように、アルカリ金属或いはアルカリ金属アルコキシド等のエステル交換触媒を用いて、脂肪酸のアルキルエステルのような、脂肪酸のグリセリド以外の「他のエステル」を存在させて油脂のエステル交換を行うことは、本件特許の出願日前(優先権主張日前)にすでに知られていた。
(ハ)従って、「他のエステル」は、グリセリド以外の、脂肪酸残基の供給源になり得るどのエステルでもよく、それらは、従来のエステル交換において用いられていたことからも明らかであり、本件特許明細書は、特許法第36条に規定された要件を満たすものである。
(ニ)そして、本件特許の出願時の特許請求の範囲を補正し、「他のエステルの存在」を加入し、また、当初明細書の「脂肪反応体、即ち油脂及びその脂肪酸で」の記載を「脂肪反応体、即ち油脂及びその脂肪酸又はその脂肪酸のグリセリド以外のエステル」と補正したことは、脂肪反応体即ち、エステル交換における脂肪酸残基の供給源として遊離脂肪酸とともに当然包含される「他のエステル」を特許請求の範囲に加入したにすぎず、「脂肪酸のグリセリド以外のエステル」を明細書に加入し、特許請求の範囲における「他のエステル」を明確にしたにすぎないもので、これらの補正は、明細書の要旨を変更するものではないし、また特許請求の範囲の記載を変更又は拡張するものではない。
(ホ)従って、本件特許出願の出願日が上記手続補正書を提出した昭和61年3月12日であるとみなされることにはならず、甲第1号証の出願は本件特許の出願の後願に相当し、甲第1号証の存在により本件特許の発明の特許性の有無は左右されない。
(2)また、本件特許発明方法における水分含有量について、請求人は、本件特許明細書は、特許法第36条に規定された要件をみたすものではないし、昭和61年3月12日付手続補正書は明細書の要旨を変更するものであると主張しているが、以下に述べるように請求人の主張は当を得たものではない。
即ち、水分含有量について、1重量%以下という表現は、「合金」の産業別審査基準にも示されるように、「0%を含まない」ことは明らかである。当初明細書では、「リパーゼを活性化する少量の水」が存在することが記載されており、本件発明の方法において1重量%以下の少量の水の存在が必要であることは明かであるが、下限については、使用する酵素、触媒、不活性支持体或いは加水分解量等の反応条件により種々異なり、水分含有量の下限は臨界的な数値を有さない。また、本件発明は、数値において無制限の従来発明の数値を限定して成立するものではなく、水分含有量1重量%以下では新規な発明であるから、下限を限定する必要はない。
従って、本件特許明細書が特許法第36条に規定する要件を満たしていないとすることはできないし、「反応体の1重量%より多くない水を含む」ことは、出願時の明細書の記載により示されているので、前記補正は明細書の要旨を変更するものではない。
(3)そして、これらの主張を補足するため、被請求人は、乙第1~2号証を提示している。
乙第1号証:特開昭51-84805号公報
乙第2号証:米国特許第3512994号明細書
Ⅲ. 当審の判断
1. 本件特許の出願日について
(1)請求人は、本件特許の出願公告決定の謄本の送達前である昭和61年3月12日付手続補正書によりなされた補正が、明細書の要旨を変更するものであると主張するので、まずこの点について検討する。
(ⅰ)「他のエステル」の補正について
補正後の特許請求の範囲第1項に記載の「他のエステル」が、脂肪酸のトリグリセリド以外のエステルを包含するものであることは、他のエステルの用語が、補正後の特許請求の範囲第1項においてトリグリセリドとは別の用語として用いられており、また一般にエステルとは有機酸または無機酸とアルコールとから水を失って生ずるような構造をもつ化合物をいう(例えば、共立出版株式会社発行「化学大辞典1」872~873頁「エステル」の項参照)こと、さらには昭和62年4月3日付上申書、特許明細書等の記載からみて明らかである。
ところで、当初明細書には、「エステル」の用語について、「分子間エステル化」(特許請求の範囲第1項、5頁4~5行等)及び「テルペンエステル」(30頁6~7行)の記載が認められる。「分子間エステル化」は、反応自体を示す用語として用いられており、また「テルペンエステル」は、反応生成物に含有されるものであって、いずれも脂肪反応体の脂肪酸基を転位する方法における原料として用いるエステルの記載ではない。これらの記載以外に当初明細書には「エステル」の用語の記載はない。
一方、エステルとの直接の用語の記載はないものの、当初明細書には、「グリセリド油」、「脂肪」、「グリセリド」、「植物性油」、「植物油」、「オリーブ、パーム、綿実、大豆又はひまわり油」、植物性バター」等々の記載があり、グリセリドが、脂肪酸と、トリアルコールであるグリセロールとのエステルであること、及び上記油あるいは脂肪が、複数種のトリグリセリドを含むことは広く知られている。そして、当初明細書には、これら油あるいは脂肪を、目的とする、食用のための脂肪を製造するための原料として用い、複数種の油又は脂肪を用いる、あるいは油又は脂肪を脂肪酸とともに用いてグリセリド分子中の脂肪酸残基の置換を行うことが記載されているものの、トリグリセリド以外のエステルの存在下で原料の脂肪酸トリグリセリド分子中の脂肪酸残基の置換を行うことについての直接の記載はない。
被請求人は、(イ)エステル交換は、本来、脂肪酸残基の供給源が存在しなければならず、この供給源は、脂肪酸のグリセリドに限らず、脂肪酸残基のどの様な供給源でもよいこと、(ロ)当初明細書に、「本願発明の方法は従来の分子間エステル化法の結果を得るために適用することができる。」との記載、及び当初明細書の第1表に、元のやし油/オリーブ油混合物のトリグリセリド画分の組成、本件特許発明の方法により分子間エステル化したトリグリセリド画分の組成と、「従来のアルカリ金属触媒の存在で分子間エステル化した時の同一混合物のトリグリセリド画分の組成」とを比較した記載があること、(ハ)乙第1号証及び乙第2号証に、アルカリ金属或いはアルカリ金属アルコキシド触媒の存在下に、脂肪酸のアルカノールエステルを使用して、グリセライドをエステル交換することが記載されていることを根拠に、「他のエステルの存在」を加入する補正は、明細書の要旨を変更するものではない、と主張している。
そして、乙第1号証には、シュロ油または同様の油から食用油を製造する方法において、シュロ油または同様の油を、エステル交換触媒の存在下に、C1~C3アルカノールの不飽和脂肪酸残基の少なくとも1種と反応させた後、生成物を減圧蒸留して飽和脂肪酸および不飽和脂肪酸のアルカノールエステルを留去して出発物質として用いた油よりヨウ素価の大きい液状食用油を得ること及び好ましいエステル交換触媒として、アルカリ金属あるいはアルカリ金属アルコキシドが記載され、また乙第2号証には、飽和ココナツ油等のラウリン酸脂を1種以上の炭素数12、14あるいは16の脂肪酸のアルキルエステルとともに、触媒の存在下でエステル交換すること及び触媒としてアルカリ金属アルコキシドを用いることが記載されている。
ところで、ある補正が明細書の要旨を変更しないとされるのは、その補正が当初明細書又は図面に記載した事項の範囲内において特許請求の範囲を増加し減少し又は変更するものである場合、即ち補正された事項が当初明細書又は図面に記載されているか、あるいは記載されている事項からみて自明である場合に限られる。本件においては、上記のように当初明細書に他のエステルの存在下に反応を行うことについての直接の記載はない(本件に図面はない)のであるから、当初明細書に記載されていた事項から、他のエステルの存在下に反応を行うことが自明であるか否かが問題となる。
そこで、この点について検討する。被請求人が、要旨変更でないとする根拠としてあげる上記理由(イ)についてみるに、本件においてはどの様な化合物が脂肪酸の供給源になり得るか当初明細書に記載されたもの以外は明確でなく、まさにこの点が争われているのであり、このような前提が本件特許発明の場合に適用しうるか否かは不明である。
同(ロ)については、当初明細書における「本願発明の方法は従来の分子間エステル化法の結果を得るために適用することができる。」との記載は、得られたトリグリセリド組成が、従来の分子間エステル化法で得られたものと同じであることを意味し、エステル化の際用いられる脂肪酸の供給源の材料が同じであることを意味するものではないし、表1に「従来のアルカリ金属触媒の存在で分子間エステル化した時の同一混合物のトリグリセリド画分の組成」の記載があるからといって、この記載は単に得られた組成の比較として挙げられているものであって、明細書に従来のアルカリ金属触媒の存在で分子間エステル化する場合の脂肪酸の供給源の材料が記載されているわけではない。さらに表1に記載のものが乙第1号証に記載されるような脂肪酸のモノエステルを用い製造されたものであるかは不明であるし、またこの比較例で用いられ得る原材料が全て本件発明において用いられ得ることを示すものでもないこともまた明らかである。なお、乙第2号証は、触媒としてアルカリ金属触媒を用いるものではない。
同(ハ)については、、乙第1号証並びに乙第2号証に、エステル交換反応において脂肪酸のモノエステルを用いることが記載されているからといって、これらに記載されるエステル交換法は触媒としてリパーゼを用いるものではないし、また単に公知のこれら2例をもって、一般に、どの様なエステル交換法においても、脂肪酸の供給源として脂肪酸のグリセリド以外のエステルを用いることが自明であるとはいえないし、ましてや触媒としてリパーゼを用いるエステル交換法において、脂肪酸の供給源として、他のエステルである脂肪酸のグリセリド以外のエステルを用いることが自明であるということはできない。
してみれば、被請求人が主張するいずれの理由を勘案してみても、当初明細書に記載された事項から「他のエステルの存在下」で反応を行うことが自明であるということはできない。
(ⅱ)水分含有量に関する補正について
水分含有量に関し、当初明細書の特許請求の範囲第1項における「酵素を活性化する小量の水と共に」が、昭和61年3月12日付手続補正書により「反応体の1重量%より多くない水を含む」と補正され、さらに最終的には平成3年2月22日付手続補正書で「脂肪反応体の1重量%以下の少量の水を含む」と補正されている。
ところで、水分含有量については、当初明細書には、上記「酵素を活性化する小量の水と共に」の他に「0.2ないし1%の水が脂肪反応体の重量で存在する特許請求の範囲(1)による方法。」(特許請求の範囲第2項)、「本発明は・・・緩衝液を含有する小量の水の存在で行われることを特徴とする脂肪の分子間エステル化のための方法を提供する。」(5頁12~17行)、「0.1%の水でさえ望ましくなく、余分な量の触媒を必要とする従来の分子間エステル化法と対照して、小量の、通常には10%までの、しかし好ましくは0.2ないし1%の水又は緩衝溶液が作用する酵素のために必要であり、・・・本発明において1%以上の水又は緩衝液はあまり望ましくない。反応に必要とされる水は酵素の分散を助けるために使用され、・・・量は脂肪反応体の重量に基づいている。」(6頁8行~7頁3行)と記載されており、上限の1重量%については具体的に開示されている。また、補正後の特許請求の範囲第1項並びに特許明細書の特許請求の範囲第1項には下限についての記載はないが、当初明細書及び特許明細書のいずれの記載からみても、水分含有量の下限が、酵素の分散を助けるために最小限必要とする量であることは明らかであり、またこの値が、使用される酵素、不活性支持体の種類、量、使用原料、反応時間等の諸条件により異なるであろうことは容易に理解できる。このことからすると、下限値は、本件特許発明の目的、効果を達成しうる最小限の量であることは明細書の記載からみて明らかであり、その下限について補正後の特許請求の範囲第1項に規定がないことをもって、昭和61年3月12日付の手続補正が明細書の要旨を変更するものであるということはできない。(2)以上検討したところから明らかなように、昭和61年3月12日付の手続補正は上記(イ)の点において明細書の要旨を変更するものであるから、特許法第40条の規定により、本件特許出願は、その補正について手続補正書を提出した時にしたものとみなされる。そして、昭和61年3月12日付手続補正書は、昭和61年3月12日に提出されているので、本件特許出願の出願日は、昭和61年3月12日とみなされる。
2. 本件発明と甲第1号証記載の発明の同否について
(1)甲第1号証の記載事項
(2)本件特許発明と甲第1号証に記載された発明の対比
甲第1号証に記載される「2位にオレイン酸を多く含有するグリセライド油脂」は、本件特許発明の「トリグリセリド」に相当し、また甲第1号証には微生物由来リパーゼ酵素が示されており、用いられる微生物が本件特許明細書に記載されたものと甲第1号証に記載されたものとを比べてみても格別差異があるとはいえないことを考えれば甲第1号証に記載の酵素も水溶性と認められるし、反応系の水分についてみても甲第1号証には水分0.18重量%以下の反応系でエステル交換することが記載され、これは本件特許発明の水分含有量である「脂肪反応体の1重量%以下の少量の水を含む」に相当するものである。さらに、甲第1号証にもリパーゼを既知方法により不活性支持体上に固定することが記載されているし、脂肪酸のグリセリド以外のエステルであるステアリン酸及び又はパルミチン酸の低級アルコールエステルを脂肪酸供給源として用いるものであるうえ、
ところで、脂肪酸のグリセリド以外のエステルが、本件特許発明でいう他のエステルに相当することは上記するとおりであるから、他のエステルの存在下に反応を行う場合は、本件特許発明は、甲第1号証に記載された発明と同一である。そして、甲第1号証は、本件特許が出願されたものとみなされた昭和63年3月12日付手続補正書が提出された時以前の昭和57年6月9日に日本国内で頒布されたものであるから、本件特許発明は特許法第29条第1項第3号に該当し、特許を受けることができないものである。
3. 明細書の記載不備等について
なお、請求人、被請求人が、明細書の記載不備等についても言及しているので、この点について付言するに、「他のエステル」については、上記のとおり本件特許出願前に頒布された刊行物である甲第1号証に記載されていることを考慮すると、本件特許明細書にその具体的内容についての説明がないことをもって、当業者が容易にその実施をすることができる程度にその構成が記載されていないというほどのものではないし、水分含有量の限定についても、上記したように下限の記載がないからといって、その含有量の範囲が不明瞭であって、当業者が容易にその実施をすることができる程度にその構成が記載されていないというほどのものでもない。
また、他のエステルが脂肪酸のグリセリド以外のエステルを包含することは明らかであるから、平成1年8月7日付手続補正書の、脂肪酸のグリセリド以外のエステルの使用が本件発明に含まれる趣旨の記載を明細書に導入する補正は、願書に添付した明細書の特許請求の範囲の減縮ないしは不明瞭な記載の釈明に該当するし、またこの補正が実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更するものであるともいえない。
Ⅳ. まとめ
以上のとおりであるから、本件特許は特許法第29条第1項の規定に違反してされたものであり、同法第123条第1項第1号に該当し、無効とすべきものである。
よって、結論のとおり審決する。